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新大阪の歯医者 豊歯科医院

 

 

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院長 豊重広をより知っていただくために

  

幼少時代

 

僕が生まれたのは、1955年4月14日奄美大島でした。なぜ奄美大島かと言うと、歯医者である父は、戦時中、大阪の大正区で開業していたのですが、空襲で焼け野原になり、父の田舎に帰ろうということで命からがら帰ってきたそうです。奄美大島は、雄大な自然に囲まれ、とにかく海がきれいだったことが記憶に残っています。

 

家から三輪車にのって5分位で海に行けるので、よく、漁港の桟橋にいっては、海の中を見ていました。カラフルな熱帯魚が泳いでいるのが見えるくらいきれいな海でした。近所の『重田のおっさん』という漁師が一番僕をかわいがってくれました。木をくりぬいて船を作ってくれたり、愛用の三輪車を買ってくれたりしてくれました。自分では、記憶にないのですが、「重坊、虫だしてみい。」と言われては、ちっちゃいお○ん○んをみせていたそうです。

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幼稚園時代

 

6歳の頃、また大阪に戻ってくるんですが、父はここ東三国で、新たに開業することになりました。奄美大島には、電車がなかったので、初めてみる電車や、人や車の多さにびっくりしたのを覚えています。

宮原のひじり幼稚園のころの僕は、とっても恥ずかしがり屋でとにかく目立たないようにしようと思っていました。先生が「今日も元気な子は?」と言われるみんなと同調して「は〜い。」と元気よく手をあげ、「今日もお弁当を残さずに食べる子は?」と言われると「は〜い。」と手をあげ、その時今日のお弁当はどんなんかなとあれやこれやと考えながら先生の質問に手を上げていると「今度、お遊戯会で王子さまとお姫様の役をしたい人は?」という質問の時に僕の頭の中はお弁当のなかみのことでいっぱい。調子よく「は〜い。」と手を上げてしまったのですが、その時、手を上げたのは、女の子ひとりと僕ひとりだけだったのでその大役を受けることになってしましました。それはもう青天の霹靂と言うのでしょうか。何と言うのかわかりませんでした。張りぼての上半身と足を出した白馬にまたがった僕が舞台に登場したとたんにカメラのフラッシュが光りました。なんと母が一番前でカメラを手にしているではないですか。

その時は、もう目立つことがこの上なく恥ずかしくて仕方がありませんでした。

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小学時代

 

小学校の頃の遊びと言えば、とにかくものを作ることがすきで、物置にあったいらなくなった乳母車の車輪をはずし、シャーシー(骨組み)を作り、おまけにハンドルもきれるようにして、エンジンのない車を作りました。友達を集めて、東三国の公団あたりの坂道で試乗会。数十メートルも走らないうちに、ハンドルがおれて車は大破。体は擦り傷だらけ。父親からは、どなられるし。僕は、それに懲りて、もっとちっちゃく、細かいプラモデルの戦車や飛行機づくりに朝から晩まで没頭していました。出来上がったプラモデルの色を塗るときにもエンジンの艶消しの感じを出すために、塗料に天花粉(ベビーパウダー)をまぜたり、かなり細部にまでこだわった作品が僕の部屋をうめつくしていました。僕の制作意欲はもっと高まり、北中島小学校時代最後の夏休みの宿題にボトルシップを作りました。おしゃれなウィスキーのびんの中に父の診療用の細長いピンセットを使って、あらかじめ色を塗り作っておいた船をばらばらにして、ひとつひとつ瓶の中で組み立てるのです。なんとそのボトルシップが夏休みの宿題大賞に選ばれ、校長室の前に飾られました。

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中高学校時代

 

そのころはビートルズが全盛で朝から晩までレコードをかけて聞いていました。僕もエレキギターがほしくなり、親に言ってもなかなか買ってもらえず、新聞配達をすることを決めて、朝刊を配ることにしました。朝3時に起きるのは、結構つらかったです。初恋もそのころで朝日が昇り、あたりが明るくなってくる頃、その子の家に新聞を届ける時は「まだあの子は寝ているのかな?」と思いながらドキドキと胸が高鳴ったのを覚えています。お金も貯まり初めてのバイトで初めてのギターを買おうと、せっかく買うのだからクラスメイトの仲間の誰ももっていないギターがほしいと思い、調弦には結構時間がかかるのですが何とも言えないいい音を出す12弦ギターを買いました。時間があればギターの練習ばっかりして、今から考えると指先トレーニングの日々を送っていたようです。 

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大学時代から開業後

 

歯科大学に通っていた兄が病気を患い大学をやめることになりました。どうにかしなければならないという気持ちもあって歯科医師になる決心をしました。

 

 福岡歯科大学に入学し、相変わらず音楽がすきで、ジャズ研究部にはいるのですが、歯科医師は体力勝負。兄のこともあったので、体を鍛えなければいけないと思って大学から海まで、20分ぐらいでいける自然環境を生かしたサーフィンにはまっていました。友達がワイプアウトした時サーフボードの先端が歯に当たり折れてしまいました。

歯を入れるのに何が一番いいか同級生と話し合いました。残念ながら、その頃、ブリッジ、一本義歯が主流でした。インプラントと言えば、「こういうめずらしい方法もありますよ。」と授業でほんの少し説明される程度で世間ではほとんど認知されていませんでした。

 大学在学中に父が脳梗塞でたおれ経済的に苦しい状態でしたが、何とか大学も卒業し大阪に帰ってきました。もちろん、家には借金もあったので、勤務医時代はそこそこに開業しました。父が開業していた診療所をリフォームし、これからは父を慕って来院された患者さまの期待を裏切らないようにしようとがむしゃらに頑張って診療していました。亡き父が自分で配列し作った入れ歯を目にして、父の腕のよさに胸をうたれました。少しでも父に近づけるように努力しました。

インプラントは暗中模索の時代でほんの一部の臨床家が、あれやこれやと試している時代で、当時親しくしていた同窓生の朝倉勉先生や、坂井英明先生と一緒に京セラ(現在のJMM)のサファイアインプラントの講習会の講師をしていてインプラント臨床家である西浜直樹先生の紹介で臨床歯科インプラント協会のメンバーに入れてもらいました。そこでは、アメリカ製のブレードインプラントや、フランス製のシェルシェブインプラントなど多種多様なインプラントの事を学びました。その頃埋入したインプラントが現在も機能している患者さまが来院されたときはこの上ないよろこびです。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

亡くなった父の写真です。              DNAとはおそろしいです。

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これから

 

高齢化社会をむかえて、「もっとはやくから歯を大切にしたらよかった。」と嘆かれる患者さまの声をお聞きします。インプラントや高額な手の込んだ入れ歯はそれなりにいいのですが、保険でも快適でよくかめる入れ歯をめざして、またしっかり食べれる喜びを味わっていただけるお手伝いをさせていただきたいと思っています。でも最も大事なことは、天然歯の重要性イコール予防の時代に今は入ってきています。歯は痛い時や困った時ではなく、日頃のメンテナンスが重要になってきています。私としては、安心してメンテナンスを受けれるような歯科医院めざして、これから頑張っていきたいと思っています。

 

 

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